やっと三郎はホテルに到着した。
「いらっしゃいませ」ドアマンがホテルの正面玄関でタクシーを迎える声が響いた。
「ようこそニューオータニロサンゼルスへ」タクシーのドアをあけ、深いお辞儀をした。
ドアマンがカートを引き寄せトランクを開けると、中には小さなカバンが一つ。
「お荷物はこちらだけでございますか」
三郎は、弥生を説得して結婚を諦めさせ、日本に連れて帰るには一日で十分だと考えていた。三郎はカバンをサッと取り、ドアへと向かった。フロントで弥生が手配した一週間の予約を一泊に変えてもらった。
三郎が五階の部屋に到着すると、驚いたことに、部屋は日本の旅館のような設えで、畳の部屋だった。靴を脱ぎ、部屋に上がった三郎は、広島から十八時間の旅の疲れもあり、すぐに布団になだれ込み、深い眠りについた。
やがて大きなノックの音で三郎は目を覚ました。飛び起きてドアを開けると、そこには妻の葬儀以来二年ぶりの弥生の姿があった。黒い長髪に金髪のハイライト、ロックバンドのTシャツにジーンズ。アメリカナイズされた娘を見て少し悲しさをおぼえた。
「パパ!」 頭を下げた三郎に抱き着き、頬ずりした。娘の自信に満ち溢れた強さに触れ、三郎自身は老いを感じた。圭子がいてくれれば、すぐに娘を説き伏せてくれただろうと三郎は思った。三郎は、何百人もの従業員を雇い会社を運営してきたが、娘に言い聞かせるのは、それより大変で不可能だと感じた。
「来てくれてよかった。許してくれないかもしれないと心配だったの」
広縁の椅子に腰かけながら弥生は言った。
「駄目だ。許したわけじゃない」
三郎が首を横に振ると、弥生の顔が歪んだ。
「どうして駄目なの」
「全部だ 結婚も、お前のここでの生活もだ。日本に帰ろう」
「でもここが私の居場所よ」
「お前の家は、広島だろう。明日の飛行機で帰って、叔母さんにちゃんとした家の見合い相手を探してもらおう」
「私の結婚式は三日後よ」
「アメリカ人とだろう?」
「ジムとよ」
弥生は父親譲りで頑固だった。弥生を甘やかし、自分が欲しかった息子のように育て、弥生の遊び場は金属プレス工場だった。母親と共に生け花、書道、茶道を嗜み、大和撫子として夫を助け、父親に従うという考えを植え付けられずにいた。弥生が結婚するときは、家から五分の家を買ってやるつもりだった。九千キロも離れた海の向こうの異国など論外だった。
「結婚は無理だ」
「でも今晩ジムの両親に会うのよ。」
三郎は娘の言葉を振り払った。
「キャンセル料ならわしが払う」
「お金の問題じゃないわ」
「この結婚は、認めん」
三郎が帝国陸軍に徴兵され、アメリカ軍と戦ったのは四十年前だった。祖国への責務を果たし、帰郷し、父親の事業を立て直し、アメリカが一瞬にして焼け野原にした街を再建した。見合いで圭子と結婚し家族を築き、圭子は両親の面倒を見ながら、幼い弥生を育ててくれた。三郎と圭子は義務を果たした。今度は弥生が圭子の墓を守り、年老いていく三郎の世話をし、次の世代を育てていくはずだった。なのに先祖への恩を忘れ、アメリカ人になるのだろうか。
突然、弥生は前屈みになり父の禿げたおでこにキスをした。
「パパ」
「なんだい、やっちゃん」
弥生の頬が緩んだ。
「そう呼ばれるの、久しぶりね」
「お前は、いつまでたってもやっちゃんのままなんだよ」
「私はもう子供じゃないわ。立派な大人よ。自分で自分のことは決められるわ」
「飛行機は明日の午後出発だ。一緒に帰ろう」
「いやよ。ここが私の居場所よ」
「…だったら、お前はわしの娘じゃない」
弥生は頷いて、すくっと立ち上がり出口へ向かい、ドアを開けた。三郎は動けなかった。娘を止められない事は分かっていた。
「早く」
弥生が言った。
「何だ」
「一緒に来て」
「どこへだ」
「結婚式場よ」
「わしは、式には出ないと言っているだろう」
「だから、式場を見れるのは、今しかないのよ」
三郎はさっと顔をそむけ窓の外を見た。眼下には背の低いコンクリートの建物が、アスファルトの碁盤の目に沿って地平線まで何キロも整然と並んでいた。海と緑豊富な広島の街並みとは、全く違っていた。
ドアが閉まったとき、胸が張り裂けそうだった。娘に会えるのは、これが最後か? 妻が亡くなり、娘がいなくなり、この世で独りぼっちになってしまったのか。その時、激しい足音が聞こえて振り向くと、ふくれっ面の弥生がこちらに向かってくるではないか。
「行くよ、頑固ジジイ」
弥生はそう言って三郎の腕を掴んだ。
三郎は思わず笑った。そう呼ばれるのは、圭子からだけだった。
弥生に連れられるままホテルの最上階に向かい、エレベーターのドアが開いた瞬間、そこには日本庭園が広がっていた。紺碧の空に眩しすぎる太陽と暖かく乾燥した空気。落ち葉一つない松やツツジの茂みを通り過ぎ、岩に囲まれた池には太陽に煌めく鯉が泳いでいた。水しぶきの音は次第に大きくなり、美しい瀧に辿り着くと、その前の広場には白い東屋があった。
「ここで式をあげるの。ラバイと出世稲荷神社の神主さんに英語と日本語でしてもらうの」
「ラバイ?」
「ジムの家族はユダヤ教なの。両方の家族も文化も大切にしないといけないもの」
「わしは出席しないから、神主さんを断りなさい」
弥生は顔をしかめ黙って三郎を庭の反対側にある千羽鶴レストランへ連れて行った。入口には、大きないけばなが飾られていた。
「パパ、これ、どう思う」
背の高い青磁の花瓶に入れられた枝物と花を見て、三郎は圭子を思い出した。
「日本のいけばなじゃないか」
「私がいけたのよ」弥生は自慢げな顔で言った。
「お前が?」
「まあ、久子先生がいけたんだけど、先生が手伝わせてくれたのよ」
「いけばなを習っているのか? このロスで?」
「そうよ。ママが亡くなって、本当に悲しかった…でも、ママがいけばなをずっとしていたことを思い出して、この近くの日米文化会館で小原流のクラスを見つけたの」
弥生が木々の間から見える遠くの大きな白い建物を指差して言った。
驚きのあまり、三郎は、「へー」としか言えなかった。圭子は弥生にいけばなを教えようとしたことがあったが、弥生はむしろ英語や数学に興味を示した。圭子の死が弥生に日本文化への興味をもたらしたのは皮肉なことだった。
弥生が店内を指さし、「ここで披露宴をするの」
大きな窓越しに着物姿の女性たちがテーブルの間を手際よくササッと行き来し、懐石料理のコースを運んでいた。
「こんなに豪華なお料理よ」
「そうかなあ?」
店内から漂う味噌の香りに三郎は空腹を覚えた。圭子が元気で夕食を作ってくれていたころの我が家の匂いだった。一人になってからはコンビニ弁当で夕食をすませることがほとんどだった。
「ここで晩御飯を食べるか。」
「何言ってるの、もうすぐジムと彼の両親に会うのよ」
娘を奪い取った男に会いたくないし、言葉が通じない親と話をしないといけないのも嫌だった。
「わし抜きで行きなさい。わしはここで食べるから」
三郎は人差し指を一本示し、「一人、お願いします」と接客係に告げようとしたが弥生が三郎の手を押さえた。
「パパって何でそんなに頑固なの」
「頑固だから生き延びれたんだよ。頑固じゃなかったら、戦争で死んでたし、お前も産まれていなかった」
弥生は少し考えていた。
「じゃ、ジムと彼の両親に会って、それでも反対なら、一緒に広島に帰るわ。どう?」
「本気で言っているのか」
「パパの賛成なしで結婚できないわ」
「結婚式をやめられるのか」
「まずジムに会ってみて」
弥生の本心はわからないが、三郎はとりあえず一緒に行くしかなかった。
外は、ロス独特の乾いた熱風が吹き荒れていた。日系の小さな店が立ち並び、店先には二世ウィークや相撲大会、お盆祭りのポスターが貼られていた。
「日本村広場」と書かれた柱に辿り着くと、その向こうには町屋風の建物、白い壁に木の格子や軒、青い屋根瓦は、広島の山々に点在する小さな村を思い起こさせた。
様々な言語が飛び交う人混みをかき分け、小物屋、回転寿司、山崎パン、日系スーパーと立ち並ぶ通りを抜けた。その時、何か甘い匂いがした―香ばしい甘い香り―子供の頃に嗅いだ匂いだった。法被を着た男が今川焼きを慣れた手つきでひっくり返しているのが見えた。懐かしい、と三郎は思った。
二人が通りの角に辿り着くと、「ジム‼」と弥生が声をあげた。ネクタイと体に合わない背広の青年の胸に弥生が飛び込むと、青年は弥生を抱きしめキスをした。気まずさに三郎は顔を背けた。
「パパ、ジムよ」 弥生は青年をこちらに向け言った。
「ハジメマシテ」かろうじて理解できる日本語で挨拶した青年は、予想外に背が低く面長で、茶色の髪をしていた。
「ワタシノナマエはジムデス。ヨロシクオネガイ イタシマス」と続けると、青年は、弥生の方を向いて、「ドウ?」と弥生に英語で聞いた。
「上手!」と、弥生は手を叩き、三郎に向き直り、「すごいでしょ。 ジムは日本語を勉強してるの」と言った。
「ベリー グッド」と三郎は頑張って言ったが、ジムの日本語よりひどかった。
「こちらがジムの両親」
「ゴメンナサイ。ニホンゴデハナセマセン」と父親が言った。母親は三郎を引き寄せハグをした。
「オアイデキテ ウレシイデス」
娘と青年は手を繋ぎ簡素な店に案内した。ソースの匂がした。席に着きメニューを見た三郎は驚いた。
「お好み焼き?」
「そうよ。パパのために広島風お好み焼きにしたの」
「アメリカで?」
「ここはリトルトウキョウだもの」
目の前でお好み焼きが焼ける間に、弥生は三郎と同年代にみえるジムの父親がGMでプラスチックを開発している技術者だと説明した。
「戦争に行かれましたか?」三郎は尋ねた。
「ドイツに」
敵同士だったのはそう遠くない過去の話だった。もしかしたら、この二人もこの結婚に反対するかもしれない。
「ワット ドウ ユー シンク? ジャパニーズ ウイズ アメリカン」
「やめて―!」と弥生が言うと同時に、 「弥生は本当に優しい子だわ。一生弥生を大切にします。ジムと弥生が出会えたことに感謝しています」と母親が割って入ると、父親も「我々が同じ自動車業界だったなんて、共通点が多くて驚いています」と続けた。
三郎は、「まだ敵同士です」と答え、拳をテーブルにぶつけて見せた。
「パパ、戦争はとっくの昔に終わってるわ」
「鋼鉄とプラスチックの新しい戦争だな」
ジムの父親は笑って、「残念ですがプラスチックが勝っていますよ」と言った。
「そんな話はやめて。食べましょう」と弥生は言った。
弥生は、生地とキャベツとそばを重ねた本格的な広島風お好み焼きの食べ方を教え始めた。一口食べたジムを見て弥生は笑い、むかし圭子が三郎にしたように、ジムの口の横についたソースを拭った。
皆が食べ終わると、ジムが「話してもいいですか?」と言った。ジムは両親を一瞥すると弥生の手を取り通訳を頼み、三郎に向き直った。
「高山さん、私は弥生を愛しています。しかし、それだけでは十分ではないとわかっています。結婚は二人だけのものではなくて、家と家の繋がりです。弥生を大切にするだけでなく、お父さんも大切にします。お父さんの祝福なしには結婚しないと二人で決めました。私をあなたの新しい息子にして下さい」
弥生は黙っている三郎を見かねて、「パパ、何とか言って」と促した。
ジムは緊張し、固まっていた。
三郎が途方に暮れていると、その時、圭子の声が聞こえた気がした。
「頑固ジジイ、弥生をみてごらんなさい。幸せそうな顔。この子は自分の居場所を見つけたわ。広島に連れ戻さないで」
もちろん妻は正しかった、圭子が弥生を育てたんだ。三郎はスッと立ち上がり、表に出て行こうとした。
「パパ、どこへ行くの」弥生は困惑して引き留めた。
「ホテルに戻って予約を延長しないといけない。結婚式に出たあと、結婚祝いに家を買わないといけないし時間が必要だ」
弥生とジムは飛び上がって三郎を抱きしめた。
「パパが泊まれる部屋もある家にしてね」
三郎は、自分の部屋ではなく孫の部屋がある家を見つけるつもりだった。自分が引退したら事業を任せられる孫だ。自分の家は、孫と今川焼を一緒に食べられるこのリトルトウキョウ辺りにしようと決めていた。
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女優の伊藤歩さんによるポーターDC・ポーター五月さんの作品「ニューオータニの結婚式」の朗読。第11回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品。2024年6月1日開催の第11回イマジンリトル東京ショートストーリーコンテスト授賞式にて。リトル東京歴史協会主催、全米日系人博物館ディスカバーニッケイプロジェクト協力によって行われました。
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* このストーリーは、リトル東京歴史協会による第11回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品です。
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