新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー
山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。
*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。
このシリーズのストーリー
第6回 與の教育
2019年11月20日 • 新舛 育雄
前回は與右衛門がワラワラで営む理髪業の絶頂期についてお伝えした。今回は與右衛門のもう一つの課題であった、與(あたえ)の教育を取り上げることにする。 二世の教育 ビジネスの成功に加えて、與右衛門のもう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與の名前は、與右衛門の一字をとって「すべてを與える」という意味で名付けた。娘二人は日本に残したが、長男の與はアメリカで教育したいという強い気持ちで日本から呼び寄せた。そのかわいがりようは尋常ではなかった。與右衛門はアメリカの地で與…
第5回 絶頂期の理髪業
2019年10月23日 • 新舛 育雄
前回は、シアトルで生まれた子供達が蒲井の與右衛門の両親の元へ預けられ、與だけ両親が働くシアトルへ呼び戻されたところまでを書いた。今回では、その後の與右衛門の理髪業の絶頂期について伝えたい。 シアトルからワラワラへ 1924年5月に長男の與(あたえ)を故郷から呼び戻した與右衛門は、しばらくシアトルにいた後、同年夏頃に郊外のワラワラ市に転居した。 シアトルでは狭いホテル暮らしであった。転居を決断したのは、家族でゆったり住めるマイホームを持ちたいと思ったからだった。ワシント…
第4回 子供達は日本へ
2019年9月25日 • 新舛 育雄
前回は與右衛門の結婚後のシアトルでの家族と夫婦共稼ぎの理髪店の様子を紹介した。今回は、仕事の邪魔になると日本へ連れて帰られた與右衛門の子供達の蒲井での生活や與の再渡航についてお伝えしたい。 家族で日本帰国 1920年9月、與右衛門は家族全員で日本へ帰国した。帰国の目的は、子供達が理髪業の仕事の邪魔になるので、蒲井に残る與右衛門の両親に預けることであった。シアトルで生まれた子供達は、日本のことは何も知らなかった。当時の子供達の年齢は與(あたえ)6歳、長女4歳、次女2歳。長…
第3回 結婚と家族
2019年8月21日 • 新舛 育雄
與右衛門のシアトルでの独身時代を紹介した前回に続き、今回は與右衛門の結婚と結婚後の理髪店、そしてシアトルで誕生した子供たちについてお伝えしたい。 與右衛門の結婚と家族生活 1900年に入ったころからアメリカでは働きすぎる日本人に対して排日運動が激しくなり、日本政府はこれを緩和するため1908年に日米紳士協約を締結した。以後、労働者は日本へ自由に行き来できなくなったため、「錦衣帰郷(きんいききょう)」を夢みた短期的な出稼ぎから、その夢をあきらめてアメリカに定住せざるをえな…
第2回 シアトルでの最初の仕事と生活
2019年7月24日 • 新舛 育雄
前回は、與右衛門の出身地である蒲井について、そして水夫に偽ってハワイ経由で1906年にシアトルへ上陸した與右衛門の船出について書いた。今回は、シアトル上陸から3年後に與右衛門が開業した理髪業について詳しく紹介したい。 シアトルの理髪業 與右衛門の長女で現在102歳の叔母によると、蒲井から渡米した多くの人達の最初の仕事はレストランやホテルの皿洗いであり、與右衛門もそんな仕事から始めたという。手持ちの金がなく、英語が全くできず、技術がなくてもできる仕事だ。朝早くから夜遅くま…
第1回 蒲井からシアトルへ
2019年6月26日 • 新舛 育雄
蒲井 山口県の上関町蒲井(かみのせきちょう・かまい)は、瀬戸内海にある長島という細長い島の南側に位置する海辺の村だ。現在は上関大橋で本土と陸続きになっているが、1960年代までは本土との橋もなく、交通手段は船だけ。当時、家屋約100軒、人口約400人程度の寒村だった。 筆者の生家には、90歳を超えた「おじいさん」の甚蔵(じんぞう)と祖母のアキがいた。てっきり二人は夫婦だと思っていたのだが、甚蔵は私の曾祖父だったと成長してから知った。祖母・アキの夫は、與右衛門(よえもん)…
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