https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/973/
政治活動家 (1917 - 2004)
(英語)全国大会で全米JACL代表に就任した後、誰を全米補償委員会議長に任命するかは、僕次第でした。僕は、外交的な判断をしようと思いました。年配の先輩たちに考えを聞かせてくれるようアドバイスを求めたところ、かなり強い要求があり、新議長には、第一に二世であること、第二に強制収容所に収容されていた経験のあること、第三に、人々の尊敬を集めるため、第442部隊の退役軍人であることが求められました。
僕がジョン・タテイシ氏1を指名した時、彼は三世なので、不満に思った人もいたようです。それに彼は、収容所に居た時は6歳で、もちろん442部隊の退役軍人ではありません。彼はまだほんの子供でした。でも彼は、強固な姿勢で補償運動に熱心に取り組んでいると思いました。そして彼には高いコミュニケーション能力があり、人と話をすることができました。
1. ジョン・タテイシ氏(1939年生まれ)は、1978年にJACL全米補償委員会議長に任命されました。戦時中の日系人への強制立ち退きと強制収容に関する調査委員会の設立案が最初に立ち上げられたのは、彼が議長の時でした。1978年、ソルトレイクシティで、タテイシ氏は、組織としての補償運動への立場をアウトライン化するための草案の作成を、JACLに求めました。1985年、JACL内で運営方針に関する対立が激しさを増す中、タテイシ氏は職を辞し、組織を去りました。
日付: 1998年7月1・2日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ミッチェル・マキ、ダーシー・イキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
クリフォード・ウエダ氏は、1917年1月14日、ワシントン州オリンピアの牡蠣養殖業者の家庭に生まれました。1941年から1945年にかけてウィスコンシン大学で学び、その後、ルイジアナ州ニューオーリンズのチュレーン大学医学部に進学しました。ウエダ氏は、カリフォルニア州サンフランシスコで医師となりました。 ウエダ氏が日系アメリカ人市民同盟で活動を始めたのは、1960年にサンフランシスコ支部で一世のオーラル・ヒストリー・プロジェクトの座長を務めたことがきっかけでした。ウエダ氏は、サンフランシスコ州立大学でエスニック・スタディーズの専門学部の立ち上げに貢献した他、「東京ローズ」として知られるアイバ・トグリ氏が、大統領恩赦を得てアメリカ国籍を回復するための支援者のひとりとして、重要な役割を果たしました。 1975年、医師を引退したウエダ氏は、フルタイムの活動家に転身しました。1977年、ウエダ氏は、全米JACLの代表として日系人強制収容に対する賠償運動に参加し、1978年から1980にはJACL会長となりました。様々な役割を通してコミュニティに貢献してきたウエダ氏は、2004年、84歳で癌のため亡くなりました。(2008年4月11日)
JACLとの関わり(英語)
「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)
収容所の補償運動の達成と教育(英語)
(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。
日系ペルー人ゆえに拒否された賠償金(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
賠償金について(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
カナダでの補償運動(英語)
日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)
Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)
時期を見計らって始めた補償運動(英語)
人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)
元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)
集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
弁護士 (1946年生)
コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)
考え方の変化(英語)
コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)
制度の中で(英語)