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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2021/8/18/north-american-times-1/

第1回 19世紀のシアトルと日系移民

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『北米時事』は、シアトルで1902年から日米開戦まで発行されていた邦字新聞だ。ワシントン大学図書館でマイクロフィルム・アーカイブが保管されている。ワシントン大学東洋図書館司書のスコット・エドワード・ハリソン氏が2004年に同紙を調査研究し、現存する紙面がアーカイブされた。2019年6月から北米時事を前身とする『北米報知』とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」を日英両言語で連載した筆者は、同アーカイブがウェブサイト上で閲覧できることを知り、オンラインで読み始めるようになった。

『北米時事』1917年12月14日第一面

アーカイブは1917年12月から1920年3月、1934年7月から8月、同年11月から12月、1935年10月、1937年11月から1940年3月までの発行号と限られた期間だが、その情報量は膨大だ。北米報知編集部によれば、太平洋戦争中の検閲や日系人強制収容で多くの紙面が破棄されたために紛失号が多々あるのだという。

アーカイブに残る最古の1917年12月14日号の第1面には、日本人商店、料理店、銀行などの広告が多く見られる。当時、シアトルに住む日本人のための大商店だった古屋商店の広告もある。年末の贈答品と正月用品が大きく掲載されており、奈良漬け、絹布類、漆器類、陶磁器、数の子、昆布類など日本を思わせる品々が並ぶ広告だ。記事のほとんどは、故国日本の記事と日本を取り巻く国際情勢の記事。異国の地で暮らす日本人にとって、最も知りたいのは日本のことだったようだ。

ページをめくると、5頁あたりにシアトルの日系コミュニティーについての記事欄がある。シアトル航路で往来する人々、日本人会、県人会、食料品店、理髪業、ホテル業などの実業組合、国語学校、市民団体、文化サークル、スポーツ等、いろいろな話題が掲載されていて、『北米時事』が当時の日本語情報紙として重要な役目を果たしていたことがわかる。記事からは、当時の日系移民が抱えていた問題と活動の様子が鮮明に伝わってくる。そして、日本からの移民が始まって1世が活躍した時期、写真結婚から子どもたちが誕生して2世の教育問題、二重国籍問題、結婚問題などが起こる時期、日中戦争が始まり日米関係が悪化していく時期と、シアトル日系移民の歴史を辿ることができた。

これらの記事を紹介しながら、シアトル日系移民の歴史を紐解きたい。第1回は、シアトルが閑散とした漁村から大発展していった頃の様子を取りあげた記事を紹介する。

* * * * * 

寒村のシアトル

先ずは、1918年7月22日号から24日まで連載された「59年前のシアトル―シアトルパイオニア婦人、ウーデン夫人の追懐談―」を取り上げたい。記事が掲載された当時のシアトルは貿易港として急速に発展し、人口も50万人を越えようとしていた。そんな中でシアトルに住む当時70歳のウーデン夫人が「59年前(1859年頃)のシアトルは荒漠とした寒村で、今と比較すると桑田碧海(そうでんへきかい)の変遷だ」と、昔を回想している。ウーデン夫人一家が1846年にミズーリ州から馬車に乗り1年近くかけてシアトルに到着し、生活を始める様子を追懐した記事で、まさに西部劇の世界だ。

「当時シアトルは13、14軒のマッチ箱のような家が散らばって実に寂寥(せきりょう)たる寒村だった。私の父はドアミシュ河附近のヴアンアッセルトに小さな家を建てた。1863年、私は15歳で結婚し、夫はワシントン街と第三街の角の寺院の隣あたりに皮革塲を開いた。1871年にウッディンビルに移住したが、移転の際は家具を今のマヂソン公園あたりに持ち出し、汽船がなかったので、船を竿や槍で動かしやっとウッディンビル対岸についた。(中略)ここでは牛酪を作り、2週間に一度、シアトルへボートに乗り、自分で漕いで、持っていった。ある時は風に吹き流されて、徹夜し、湖上に浮遊したこともあった。マヂソン公園から市内まで約3マイル(約5km)の道を歩いて売り廻った」

その寒村のシアトルは、1880年には人口約3500人となり、エリオット湾に面した低地に建物が建ち始めた。1890年には、人口約4万人を越え、林業を中心に発展し始めた。

1889年頃のシアトル市の全景写真が『北米時事』1918年3月29日の記事の中に残されている。


日系パイオニア

1896年に日本郵船のシアトル航路が開かれると、日系移民が本格的に増え始めた。1939年1月1日号掲載の中村赤蜻蛉による「メーン街盛衰記」には、当時65歳で「日系移民の生き字引」と呼ばれた築野豊次郎氏が語る日系移民初期の様子が記述されている。築野氏はシアトル洋食店組合を創立した人物で、1896年に21、22歳でシアトルへ渡った。

「初めてシアトルに来て、ジャクソン街大北鉄道駐車場前あたりで、釣をしていて大きな魚を釣り上げた時、先輩に『おい、小さい!釣れるかい』と言われてびっくりした。(中略)最初にシアトルにきた先輩は、後からきた新渡米のほやほやに体の大小に関わらず、「小さい」と呼んでいた。(中略)当時のシアトルはまだ漁村の観を脱せず、メーン、ジャクソン、ワシントンは今の第四街あたりから、水たまりの低地で所々に葦が茂り、時にはエリオット湾の水が家の床下まで達した」

シアトル初の日系移民とされる西井久八氏が1881年、古屋商店創業者の古屋政次郎氏が1890年にシアトルに来ている。シアトル航路開通以前に200人程の日本人がシアトルで生活を始めていたようだ。先駆者たちの生活は、現在のパイオニア・スクウェアを拠点としていた。築野氏はオクシデンタルにナイアガラというレストランを経営し、1900年にウエストメーン街にアラスカというレストランを始めた。

シアトル市総人口と日本人人口(1850年~1910年)(『北米年鑑』1928年)


領事館の新設

シアトルの近くにあるタコマも貨物集散地として発展し、1890年には人口約3万6千人となった。タコマ日本人会から1894年に外務省へタコマに領事館を設置するよう請願書が出されたため、外務省は西北部沿岸のどこに領事館を新設したらいいか調査に乗りだした。

領事館新設に関する1894年外務省文書(『北米時事』1919年1月14日)

1919年1月14日号と15日号に掲載された「領事館新設当時の状態、27年前のシアトル」に、「1894年の調査に係る合衆国西北部に於ける領事館新設地探索に関する報告」という外務省文書の転載がある。

「タコマ、シアトルのどちらが、最も公館設置にふさわしいか詳細な考察が必要で、容易に結論がだせない。候補都市にして殆ど同じ地位を占める。両市の適否を研究すれば、小田切書記生の復命(ふくめい)の通り、タコマ市が最も適当な市港と断言せざるを得ない。その理由を約言すれば、タコマは米岸と東洋間定期航路により人や貨物の搭載が便利で、この航路が東洋の商業を誘引する大きな力となる。タコマ市は在留日本人の信用が高く、一方シアトル市はこれに反し、信用が低い。日本人商店にてこの地方に来て、商業に従事する者もシアトルを捨てタコマを採る人が多い。以上を熟考すると、北太平洋沿岸の商業の中心はタコマであることは明瞭である。帝国政府に速やかに公館の設置を望む」

このような経緯で西北部を管轄する最初の領事館は1895年にタコマに設置された。しかし、それから6年後の1901年に領事館はシアトルへ移る。

1920年3月19日号の記事に、当時のシアトルの変貌を読み取ることができる記事がある。外務省へ報告をしていた小田切氏が横浜正金銀行重役となって久しぶりにシアトルを訪れた際の記事で、日米貿易関係者が集まったシアトル・ナショナル・バンク晩餐会の席上で同氏が領事館設置由来について語ったことを記述している。

「当時、シアトルとタコマの競争は丁度美しい女の双子の二人の内一人を選ぶというような苦渋の選択だった。1895年頃はタコマに鉄道があって、シアトルにはまだ鉄道なかった。このことがタコマに決まる大きな要因となった。後にシアトルにグレート・ノーザン鉄道ができ、シアトルは急激な発展を遂げ、時勢の変化により1901年にシアトル領事館の設置に至った」

発展するシアトルへ向けて、多くの日本人が一稼ぎするため次々と渡った。筆者の祖父、與右衛門(よえもん)がハワイからシアトルに渡ったのは1906年だった。

次回は、1890年頃に日本人として最初にシアトルへ渡ったシアトル日系移民の元祖の記事についてお伝えしたい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)


参考文献:

有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年
『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年
『北米年鑑』北米時事社、1928年

 

*本稿は、『北米報知』に2021年5月31日に掲載されたものです。

 

© 2021 Ikuo Shinmasu

19世紀 コミュニティ 移民 移住 (immigration) 移住 (migration) シアトル アメリカ合衆国 ワシントン州
このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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