インタビュー
お手伝い (英語)
(英語) (母は)子供たち全員に仕事を割り当てました。兄や弟たちは庭の手入れをし、私は毎朝鳥に餌を上げるのが日課でした。野菜を細かく切って残り物のごはんと混ぜ、それを鳥に食べさせ、それから卵を拾うんです。時々卵を落としてしまったりすると、母にものすごく怒られ、お尻をたたかれましたよ。母は私たちに卵を食べさせてくれませんでした。卵は売り物だったので、そんな余裕はなかったんです。大変でしたよ。
その他にも私は兄弟姉妹全員のお昼を作らなくてはいけませんでした。姉が(お嫁に)行ってしまい、娘の中では私が一番上だったので、いろいろな責任ある仕事を任されるようになりました。9歳でした。母は一日中洗濯場にいたので、私が家族の食事を作りました。簡単なものですが・・・あのころはステーキもありませんでしたし、スパゲティーの作り方も知りませんでした。私がメイドとして働くまでは、スパゲティーなんて見たこともなかったですよ。だから食事は野菜料理が多く簡単なものでした。少しだけベーコンを炒めて入れたりしてね。(そんな感じで)私が料理をしていました。
朝は5人の兄弟姉妹のお昼を作りました。そして毎朝・・・チョリソ(ソーセージ)は今高いですね。食べたいけど高くて買えないわ・・・私たちが子供の頃、母がチョリソを大きな缶で買っていました。一番簡単にできる料理(はチョリソを使ったもの)でした。毎朝それを薄く切ってカリカリに炒めお弁当箱に入れるんです。長方形のアルミ製の箱を買ってね。ある日、ポルトガル人の先生のミセス・メンドンサがクラスの皆の前で私のお弁当箱を持ち上げて――確か私が小学校4年生か5年生の時だったと思います――「フサコのお弁当を見てごらんなさい。毎日チョリソを持ってきているけど、これは身体に良くないの!」と言ったのを覚えています。本当に恥ずかしかったです。
日付: 2004年2月19日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
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