前回は、與右衛門死後のアキの奮闘と姉妹の再渡航についてお伝えした。今回は、長男、與(あたえ)の再渡航と家族のその後についてお話し、最終回としたい。
與の再渡航
與は、父親の與右衛門が死亡したため、1929年2月に母親のアキと日本へ帰国した。その後は蒲井で生活し、日本の学校へ通った。子供の頃に一旦は日本へ戻り小学校へも通っていたバイリンガルの與には、日本の学校生活も平気だった。帰国の翌年1930年4月に、本土にある柳井中学(現在の柳井高校)に入学した。柳井中学は山口県でも有数の文武両道の県立中学だった。與は、英語はやはり抜群の成績だった。国語や他の科目も平均以上だった。柳井中学では柔道部主将となり、県大会などで活躍した。蒲井からは通学できなかったので、中学から寮生活をし、寮長も勤め、人望も厚かった。
1935年4月には同志社高商(現在の同志社大学)へ入学。同志社高商でも柔道部に所属し、全国大会にも出場した。当時の柔道大会は体重による階級別はなく、出場選手一律の試合だった。與は体が小さかったこともあり、柔道をこれ以上やることに限界を感じていた。與は自分の生まれたシアトルへの思いが強く、再びシアトルへ行って働きたいと思うようになった。そのような動機が重なり、1936年3月に同志社高商を中退した。そして6月20日に神戸から平安丸に乗り、既に再渡航している母親のアキと長女のいるシアトルへ向かった。1936年7月30日付けのシアトル市保健衛生局の就労許可書が残されていた。
與はシアトルで、アラスカ鉄道の機関士として夜勤の仕事を約5年間に渡って従事した。この時に着用していた仕事着が、蒲井の家に残されていた。冬の寒いアラスカに向けて走る鉄道での夜勤の仕事は、とてもつらかった。職場にいる白人が、與が日本人であるということで、與に暴力を振るうことがしばしばあった。
シアトルへ渡り、3年間は母親のアキと妹との一家共々の生活を送ることができたが、前回お伝えしたように、1939年8月13日にアキは長年営んだ理髪店を閉店し、長女と一緒に帰国した。家族3人の生活から、與は急に1人の生活となった。
1939年12月20日に、本稿で何度もお伝えした與右衛門の最初の理髪業のパートナーで與の叔父となる吉田龍之輔が死亡した。このことは、與には大きなショックであった。龍之輔は與にとっては與右衛門の親代わりのような存在だった。
與は叔父の死を悼んだ。その思いが與の日記に記されていた。龍之輔の亡くなった時の様子は、『ジム・吉田の二つの祖国』の中にも克明に記述されている。與はジム・ヨシダとは従兄関係にあり、シアトルでも親しく交際し、柔道の練習をしたこともあった。戦後になってこの本が出版されたとき、ジム・ヨシダのサイン入りの本が與に送られていた。
1940年の国勢調査に、與は25歳で下宿住まいと記録が残されている。住所は「218 5TH AVE SO SEATTLE」だった。また1940年8月発行の與の運転免許証も残されている。
與が休日に近所や親戚の人を乗せてシアトル郊外にドライブに行った写真が、多く残されていた。休日には交響曲の生演奏を聞きに行くことを趣味にしていた。この当時に活躍した指揮者、レオポルド・ストコフスキー、ローゼンストック、トスカニーニ等の新聞、雑誌の切り抜きがたくさん残っている。
與の帰国
1941年1月始め頃、日米戦争の危険を感じた蒲井の新舛家は與のことを心配していた。このままシアトルにいたら大変なことになるので、一日も早く日本に帰ってほしいと考えた。そこで與の祖父の甚蔵はアキと相談し、與に1941年1月8日に電報を打った。
「母危篤すぐ帰れ。新舛」
これを見て與は母が危篤だとびっくりした。すぐ、與は翌日の1月9日にこの電報を片手に持ち、帰国許可書をもらいにいった。この許可書には、帰国理由として、母アキに会うためと記載されている。1月10日にはシアトル市役所へ行き、自分の出生証明書のコピーを受け取った。この書類は帰国のために必要なものだった。この出生証明書には、與は1914年9月6日にシアトルで生まれ、出生当時は與右衛門が30歳、アキ20歳で職業は理髪業と記されている。住所は、與右衛門とアキが経営した理髪店の住所である163 Washington St.と書かれている。
與は仕事も辞め、急いで身支度をして帰国の用意をした。與は多くの親戚や友人の見送りを受け、5年間に渡る幼少時から数えて三度目のシアトル生活に終止符をうち、1941年2月21日にシアトルを発った。
與は、シアトルへ移住していた蒲井のアキの実家宮崎家の母子3人と一緒に帰った。乗船した平安丸の「御乗船記念芳名録」にこれらの人達の名前が書かれている。日本に帰るのに2週間以上もかかり、母アキは大丈夫だろうかと與は不安にかられながらの船旅だった。3月11日に神戸に到着し、ようやく蒲井に帰った。
帰ってみるとびっくり仰天、アキは元気そのものだった。やっと電報の意味がわかり、安心もしたが、本当に戦争が始まるのだろうかと疑心暗鬼な気分であった。日米の太平洋戦争が始まる9カ月前の出来事だった。後に與は、もしこの電報がこなかったら、自分は日系アメリカ人としてヨーロッパ戦線に行っていただろうと語っていた。
與は日本に帰国し、蒲井のような田舎にじっとしていたくなかった。そして昔の友人の誘いで、大阪の大手食品会社に勤めようと決心した。アキも無理やり與をシアトルから連れ戻したこともあり、同意してくれた。身支度をしてトランクを持ち、朝の船に乗ろうと家を出かけようとしたところだった。與の祖母が泣きながら「お願いだから蒲井に残ってくれ。長男が家にいてくれないと困る」と、與の出発を無理やり止めた。與はやむなく大阪行きを断念した。それで與は仕方なく蒲井に留まり、10月から島の国民学校の代用教員となった。
太平洋戦争が始まると、與は日系アメリカ人だったが、日本兵として従軍させられた。この時の思い出について、與は多くを語りたがらなかった。與が日系アメリカ人ということで、執拗ないじめがあった。『ジム・吉田の二つの祖国』でジム・ヨシダが日本兵として従軍させられたときと同じような光景がここにもあった。
そして何とか戦争が終わり、與は蒲井へ又帰った。
戦後、與はずっと蒲井の近くの村の小学校で教員を務めた。日本の小学校の教員は、二世の子供達に日本語や日本の文化を教えるシアトル国語学校の先生に近いものがあった。これまでの與の人生体験からすると、国語より英語の方が圧倒的に得意だった。戦後まもない日本の小学校では、英語の授業はなかった。しかし、子供達が與はアメリカに生まれ、何度も日本とアメリカを行き来して、若い頃はアメリカで活躍していたのだと知ると、英会話を教えてくれと頼んだ。小学校の教員は学校に宿直する役目があったので、宿直した夜間に学校で英会話教室を開き、子供達に大好評となった。近くにいる英語の先生より、はるかにネイティブな英語だった。與は、当時の型にはまった教育界になじめず、あまり出世できなかった。よく、晩酌で一杯機嫌になると、職場の愚痴をこぼしていた。
筆者は、これまで父はうだつの上がらない平凡な小学校教員だと思っていた。しかし、この連載を書き始めてから、父がシアトルに生まれた日系アメリカ人で、アメリカで子供時代、青春時代を過ごしたということを実感することができた。実は父は世界を知るスケールの大きい凄い先生だったのだと、初めて見直すことができた。
晩年、與は「もう一度シアトルへ行きたい」と口癖のように言っていたが、結局それは実現しなかった。夢によく、シアトルの子供時代に路上で遊んで、骨付きチキンを食べる時のことが出てくると言っていた。
その後の家族の様子
與右衛門の長女は戦後、蒲井の隣村の四代(しだい)に嫁いだ。蒲井の実家で法事や祝い事など何か行事があるときは、約5kmもある道のりを歩いて駆けつけ、いつも大きな元気な声で皆の手伝いをしてくれた。次女は戦後まもなく、かつて蒲井からシアトルへ行った仲間の家族の人と結婚し、都会に住むことになった。夏休みになると、必ず家族を引き連れて蒲井へ帰省していた。次女が帰ってくると、蒲井中が次女の元気な声で明るくなった。姉妹二人は、子供の頃は両親がシアトルへ行って蒲井にはおらず、父母が近くにいない悲しみに暮れ、とてもおとなしかった。しかし、父親の死という過酷な試練を乗り越え、年を重ね、底抜けに陽気な姉妹となった。
アキは村一番の働き者であった。その働きぶりから、アメリカでの奮闘の様子が想像できた。筆者が幼少の頃、アキはアメリカで使ったバリカンでよく散髪をしてくれた。アキのバリカンの手さばきは、見事なものであった。
筆者の母である農夫子(のぶこ)は、海とは縁のない山の中にある村から蒲井へ嫁いできた。農夫子は、よく海が荒れるので、定期船に乗るとこわがっていた。そんな話をアキにすると「船は少々傾いても、沈むようなことはないから大丈夫」と、いつも農夫子を励ましていた。太平洋の荒波を何度も往復した経験から、瀬戸内海の大波くらい、アキにとっては何ということはなかったようだ。
アキは1963年8月31日に69歳で他界した。與右衛門の死後35年後のことだった。この当時、まだ村の埋葬は土葬だったが、アキは生前に火葬で遺骨にして埋葬してくれと遺言を残しており、與右衛門の遺骨のある墓に埋葬された。墓には、アキの生前から決められていた戒名が與右衛門の横に書かれてあった。葬儀のとき、親戚の人が悲しみに暮れながら「與右衛門の所へいくのだよ」と言っていた。当時中学1年生だった筆者には、この言葉の意味がよく理解できなかった。
與右衛門とアキは、二人三脚でシアトルで数々の苦難を乗り越えていった。だから「お疲れ様!」といってあの世で逢えるのだと、今やっと親戚の人の言葉の意味を理解することができた。そして與右衛門とアキは仲良く、墓の中から蒲井の海を見つめていた。
連載終了にあたり
12回に渡り、北米報知、及びディスカバー・ニッケイのウェブサイトに日本文のみならず英訳文でも掲載いただき、多くの読者から暖かい反響をいただいたことを感謝している。
この連載作成にあたり、北米報知の室橋様、全米日系人博物館のディスカバー・ニッケイプロジェクトの西村様には多大なご協力を頂き、この場を借りてお礼申し上げたい。また大塚美那様、キムリー・ソク様の素晴らしい英文翻訳にも謝意を表したい。
本稿は、大学での卒論とは違う視点で、自身の祖父である與右衛門が生きたシアトルやシアトルの日系社会の歴史について多くの方々に伝えられたことは、この上ない喜びである。與右衛門も無念の死が晴れ、あの世で喜んでくれていると思う。
参考文献
ジム・吉田、ビル・細川『ジム・吉田の二つの祖国』文化出版局、1977年
* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。
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